無料体験
レッスン
電話
Column

交響曲の聖域で背中を向け合った二人――ブラームスとブルックナー

公開日:2026.03.13 更新日:2026.03.13クラシック楽器音楽のマナビ

交響曲の聖域で背中を向け合った二人――ブラームスとブルックナー

十九世紀末、音楽の都ウィーン。そこには、一つの「見えない境界線」がありました。

保守派の旗手とされるヨハネス・ブラームスと、進歩派(ワーグナー派)に担ぎ上げられたアントン・ブルックナー。ブラームスは、ブルックナーの交響曲を「交響的なボア・コンストリクター(大蛇)」、あるいは「無機質な虚飾」と呼びました。一方のブルックナーもまた、ブラームスの交響曲を「室内楽の拡大版に過ぎない」と断じました。当時の聴衆や批評家たちは、まるでスポーツの試合でも観戦するかのように、2人の作曲家を「敵対する二大陣営の親玉」として扱い、激しい舌戦を繰り広げていました。

しかし、歴史の砂に埋もれた断片を拾い集めていくと、そこには周囲の喧騒とは全く異なる、静謐で、どこか涙ぐましいほどの「敬意」が浮かび上がってきます。彼らは本当に対立していたのでしょうか? それとも、あまりに巨大な才能を持っていたがゆえに、相手の「底知れなさ」を誰よりも理解していたのでしょうか。

今回は、器楽という荒野に独り立ち、交響曲の未来を背負った二人の巨星の、不器用で美しい関係性を紐解いてみたいと思います。


煽られた対立構図――ウィーンの言論界が作り上げた「二項対立」の罠

当時の音楽界を語る上で欠かせないのが、評論家ハンスリックの存在です。彼は「絶対音楽(音楽そのものに意味がある)」を信奉し、ブラームスをベートーヴェンの正統な後継者として神格化しました。その一方で、ワーグナーの影響を受けたブルックナーを「支離滅裂な音楽を書く者」として徹底的に叩いたのです。

この周囲の熱狂が、本人たちの意志とは無関係に「ブラームス vs ブルックナー」という構図を固定化させてしまいました。支持者たちは相手の陣営の初演に足を運んではブーイングを浴びせ、雑誌はスキャンダラスに両者の違いを書き立てる。

しかし、私たちは知っています。大衆が熱狂する「対立」の多くは、実は表面的な記号に過ぎないということを。


性格の不一致が招いた悲劇? 都会派ブラームスと野人ブルックナー

二人の対比は、音楽以上にその「キャラクター」において顕著でした。

  • ブラームス: ハンブルク出身の都会人。知的で皮肉屋、整理整頓を好み、古典を重んじる。独身を貫き、自らの感情を緻密な論理で包み込む。

  • ブルックナー: 田舎の校長先生の息子。極めて敬虔なカトリック信徒であり、時に滑稽なほど謙虚(ワーグナーを「親方」と呼び、皇帝に「ハンスリックが私の悪口を書かないようにしてほしい」と直訴するほど)。

これほどまでに住む世界が違えば、直接的なコミュニケーションがすれ違うのは無理もありません。ブラームスにとってブルックナーの音楽は「巨大なボアコンストリクター(大蛇)」のように見え、ブルックナーにとってブラームスの音楽は「あまりに複雑で冷徹」に感じられたのかもしれません。しかし、この「違和感」こそが、相手を意識せざるを得ない強力な磁場となっていたのです。


器楽という孤高の頂で――彼らが戦っていた、たった一つの共通の敵

十九世紀後半、音楽界の主流は「標題音楽」や「楽劇」へと移り変わっていました。そんな中、言葉に頼らず、音そのものの構造だけで世界を語ろうとする「器楽(交響曲)」という分野は、絶滅の危機に瀕した聖域のような場所でした。

性格が正反対のブラームスとブルックナーは、この困難な山に登るための、たった二人の「同志」でもありました。

  • ベートーヴェンという巨大な亡霊とどう向き合うか。

  • 調性の崩壊が近づく中で、どうやって音楽の秩序を維持するか。

彼らが本当に戦っていたのは、相手の作曲家ではありませんでした。時代そのもの、そして自らの中に潜む「創作の限界」という沈黙と戦っていたのです。交響曲の未来を、ある者は「四棟の建築物」として、ある者は「九つの祈り」として守り抜こうとした。その道筋こそ違えど、彼らが到達した頂は、同じ場所だったのではないでしょうか。


「あちらは総統、私はしがない校長」――身分差を自認したブルックナーの謙譲

ブルックナーという人は、生涯を通じて「自分は何者でもない」という卑下に近い謙虚さを抱え続けました。彼にとって、ハンブルク出身の洗練された知識人であり、若くしてシューマンに「新しい道」として予言されたブラームスは、まばゆいばかりの「正解」そのものでした。

ブルックナーは周囲に対し、しばしばこう漏らしていました。

「あちら(ブラームス)は、音楽界の『総統(プレジデント)』です。それに引き換え、私はしがない田舎の校長先生の息子に過ぎません」

これは決して嫌みではありません。ブルックナーは、ブラームスが持つ「都会的なエレガンス」や「一分の隙もない形式感」が、自分には逆立ちしても手に入らないものだと確信していたのです。彼がブラームスを呼ぶ際、常に「Herr Doktor(ドクトル・ブラームス)」と尊称を用いたのは、学位への憧れ以上に、その知性への純粋な畏怖の表れでした。


ワーグナー派の禁忌を破って――ブラームス「交響曲第3番」に送った、無邪気な喝采

1880年代、ウィーンは「ブラームス派」と「ワーグナー派」に二分され、両陣営の交流は「裏切り」に近い行為とされていました。ブルックナーはワーグナー派の象徴として担ぎ上げられていましたが、彼自身の音楽的好奇心は、そんな党派争いよりも遥かに純粋でした。

1883年、ブラームスの『交響曲第3番』が初演された際、ブルックナーは客席にいました。ワーグナー派の若者たちがブーイングを浴びせる準備をしている中、ブルックナーはその音楽が持つ「古典的な均衡」と「緻密な動機の展開」に深く感動してしまいます。

目撃者によると、演奏終了後、ブルックナーは立ち上がり、周囲の目を気にする様子もなく熱烈に拍手を送っていたといいます。ワーグナーへの忠誠を誓いながらも、良い音楽に対しては子供のように無防備に心を開いてしまう。この「不器用な誠実さ」こそが、ブルックナーがブラームスというライバルに向けた、最大の敬意の形でした。


書斎に隠された「ドイツ・レクイエム」――論理の美しさに平伏したオルガニスト

ブルックナーの蔵書や楽譜を調べると、彼がブラームスのスコアを熱心に研究していた形跡が見つかります。特に、ブラームスの出世作である『ドイツ・レクイエム』に対して、ブルックナーは深い関心を持っていました。

ブルックナーの宗教曲が「神への直接的な法悦」であるとするなら、ブラームスのレクイエムは「残された人間への知的な慰め」です。ブルックナーは、自分には書けないその「理性の重み」に衝撃を受けました。

「この楽曲の構造は、なんと堅固なのだろうか」

オルガニストとして即興演奏を得意としたブルックナーにとって、石造りの伽藍を組み上げるようなブラームスの構築力は、神の摂理にも似た「憧れの対象」だったのです。彼はブラームスの手法を自分の交響曲にそのまま取り入れることはありませんでしたが、その完成度の高さには、常に一目置いていました。


「この仕事は彼に」――ブラームスが裏で糸を引いた、ライバルへの贈り物

一方ブラームスは、しばしばブルックナーの音楽を「支離滅裂な化物」と罵倒しました。しかし、彼が音楽に対して抱いていた「誠実さ」は、個人的な嫌悪感を遥かに凌駕していました。

1890年代、ブラームスはある依頼を断ります。それは、ウィーン楽友協会から求められた祝祭的な合唱曲の作曲でした。ここでブラームスは、驚くべき「根回し」を始めます。「この種の宗教的で壮大な響きを形にするなら、私よりも適任な男がいる」――そう言って彼が名前を挙げたのが、宿敵ブルックナーでした。

そうして生まれたのが、力強く天を仰ぐような傑作『詩篇第150番』です。ブラームスは知っていたのです。自分の緻密な論理では辿り着けない「神への野蛮なまでの肯定」を、ブルックナーだけが持っていることを。それは、一流の専門家だけが知る「白旗」の上げ方でした。


第八番の衝撃と、出版社への執励な督促――ブラームスが見つけた「真実」

ブルックナーが心血を注ぎ、何度も改訂を繰り返した末に初演された『交響曲第8番』。この「大蛇」のような大作に、ブラームスは打ちのめされます。 彼は知人である楽譜出版社カール・ハースリンガーの社員、ロベルト・リーナウに対し、異様なまでの執念でこう依頼しました。

「ブルックナーの八番のスコアを、一刻も早く送ってほしい」

この時、ブラームスが求めていたのは批判の材料ではありませんでした。彼は一人、書斎でその膨大な楽譜を読み解きながら、自分の信じてきた「形式」という城壁が、ブルックナーという巨大な波によって飲み込まれていくのを、震えるような喜びとともに確信したのではないでしょうか。彼は周囲に対し、この第八番を「称賛」するという、かつての自分からは考えられない態度を示したのです。


特別席からの喝采――ミサ曲が繋いだ、老ピアニストと老オルガニストの視線

1893年11月、ウィーンに一つの奇跡が起こります。ブルックナーの『ミサ曲第3番 ヘ短調』が演奏された際、客席にはブラームスの姿がありました。 演奏が終わるやいなや、ブラームスは特別席から立ち上がり、誰よりも熱烈に拍手喝采を送りました。

かつて自分を「支離滅裂」と呼んだ男が、自分の音楽に心からの賞賛を送っている。その姿を見たブルックナーは、震える足でブラームスのもとへ歩み寄り、感謝の言葉を述べました。この瞬間、ウィーンを二分していた「戦争」は、二人の老人の小さな握手によって、事実上の終戦を迎えたのです。


死を予感する者たちの共鳴――『テ・デウム』という名の最後の舞台

ブラームスの贖罪と敬意は、さらに続きます。 1895年、ブラームスは楽友協会の指揮者リヒャルト・フォン・ベルガーに対し、ある作品の演奏を強く推薦しました。それが、ブルックナーの『テ・デウム(汝、神を讃えん)』です。

ブラームスの推挙によって実現した1896年1月12日の演奏会。それが、病に冒されていたブルックナーが自作の演奏に立ち会うことのできた、生涯最後の機会となりました。ブラームスは、自分が死ぬ前に、この不器用なライバルの最高傑作を、最高のかたちでウィーンに遺したかった。ここには、もはや好敵手という言葉さえ超えた、同じ「器楽の山」に登る者同士の、峻厳な友情が漂っています。


カールス教会の柱の陰で――八歳の少年が目撃した、楽聖の涙

1896年10月、ブルックナーが世を去りました。葬儀はブラームスの自宅から目と鼻の先にある、カールス教会で行われました。 ブラームスは、教会の中に入ろうとはしませんでした。「私はプロテスタントだから」という理由は、彼の孤独を守るための口実だったのかもしれません。彼は教会の入り口で、ただ遠巻きに、かつての宿敵が神の元へ帰るのを見つめていました。

会衆の一人が「中へ入りなさい」と促すと、ブラームスは自らの死を確信したかのように「次は私が棺に入る番だ」と言い放ち、雑踏へと消えました。

しかし、物語はここで終わりません。 当時わずか八歳だったベルンハルト・パウムガルトナー(作曲家・オルガニスト・後の偉大なモーツァルト学者)は、信じられない光景を目撃します。雑踏に消えたはずのブラームスが、人目を避けるように戻ってきて、教会の柱の陰に隠れ、声を上げて泣いていたのです。

その半年後、1897年4月、ブラームスは言葉通り、ブルックナーを追うように旅立ちました。 


器楽の作曲という分野において、真に才能ある二人。

彼らが遺した楽譜を今、交互に聴くとき、そこには罵り合いではなく、一つの時代を孤独に歩んだ者同士の「沈黙の抱擁」が聞こえてきます。ブラームスの四番と、ブルックナーの八番。両者の最高傑作の間に吹く風こそが、クラシック音楽が到達した最も美しく、そして最も清らかな安寧の場所なのです。


ずっと心の中にあった「ピアノが弾けたら」という想い。今、その願いを現実にしてみませんか?
初心者の方も、憧れの曲に挑戦したい方も。丁寧なマンツーマンレッスンで、
あなたの「弾きたい」という夢を、私たちが全力でサポートいたします。

クラブナージ音楽教室のピアノコースを見る

こちらの記事もぜひ!▶絢爛たる虚飾の先に、彼は何を見たか――フランツ・リストの「作曲家」としての真価を問う

SNS

同じカテゴリの記事

コース一覧

教室の雰囲気を一度体験したい いきなり通うのは不安

そんなあなたに安心。
無料体験レッスン
行なっています !

クラブナージは初めて音楽を習う方が多いので、初心者大歓迎 !
まずはお気軽にお越しください。

体験レッスンのお申し込み

お電話は
こちら

052-753-7200 0120-969-543

平日 13:00〜20:30/土・日 10:00〜18:30 月曜定休

サックスを持つ笑顔の女性