しかし、私たちが美しい音色に心を奪われているその裏側で、長い間、ある深刻な問題が横たわっていたことをご存知でしょうか。それは、ピアノの「白い鍵盤」の材料に関するお話です。
かつて、高級なピアノの鍵盤には「象牙(ぞうげ)」が当たり前のように使われていました。しっとりと指に吸い付くような感触、汗を吸って滑りにくくなる機能性。演奏家にとってそれは理想的な素材でした。けれど、その素材を得るために犠牲になったものがあまりにも大きすぎたのです。
今日は、ピアノ愛好家だからこそ知っておきたい、象牙とピアノ、そして私たち人間に突きつけられた課題について、少し立ち止まって考えてみたいと思います。
目次
なぜ、ピアノに象牙が使われていたのか?

今のピアノのほとんどは、アクリルや人工素材で鍵盤が作られていますが、ほんの数十年ほど前まで、あるいは現在でもヴィンテージのピアノ市場では、象牙の鍵盤を見かけることがあります。なぜ、そこまで象牙が重宝されたのでしょうか。
理由は大きく分けて二つあります。一つはその「美しさ」です。プラスチックのような無機質な白さではなく、象牙には独特の温かみのある乳白色、そしてうっすらと見える木目のような模様があります。これがピアノという楽器の格調を高めていました。
もう一つの、そしてより実用的な理由は「機能性」です。象牙には微細な気孔が無数にあり、これが適度に指の汗を吸収してくれます。熱中して演奏していると、どうしても指先が汗ばんでくるものですが、象牙の鍵盤は滑りにくく、指が吸い付くようなフィット感を持続させてくれるのです。ショパンやリストといった大作曲家たちが活躍した時代のピアノも、当然のように象牙が使われていました。
「白い金」と呼ばれた代償と密猟の悲劇
しかし、その需要の高さが悲劇を生みました。象牙は「白い金」とも呼ばれ、高値で取引されるようになった結果、アフリカゾウを中心とした乱獲・密猟が横行したのです。
象牙は、生きている象から痛みなく採取できるものではありません。象牙を得るということは、すなわち象の命を奪うこととほぼ同義です。特に1970年代から80年代にかけての密猟は凄惨を極め、アフリカゾウの個体数は激減しました。
「美しい音楽を奏でるために、地球上の美しい生き物が殺されていく」。この矛盾に世界中が声を上げ始めました。そして1989年、ワシントン条約(CITES)締約国会議において、象牙の国際取引の原則禁止が決定されたのです。これにより、ピアノ業界も大きな転換を迫られることになりました。
問題は解決したのか?現在の状況
では、国際取引が禁止されたことで問題はすべて解決したのでしょうか? 残念ながら、答えは「NO」に近いのが現状です。
ワシントン条約以前に輸入された象牙や、自然死した象から採取されたものなど、一部の「合法的」な在庫は現在も流通しています。日本国内においても、登録された象牙製品の売買は認められています。これは、過去の文化財や楽器を保護する意味合いもありますが、同時に「象牙市場」が完全に消滅していないことも意味します。
また、悲しいことに現在でも違法な密猟は完全に根絶されていません。需要がある限り、供給しようとする闇のルートが存在してしまうのです。私たち日本人も、印鑑(ハンコ)や和楽器の部品などで象牙を珍重してきた歴史があり、この問題とは無関係ではありません。「昔のものだから良いだろう」という感覚と、「これからの未来のためにどうすべきか」という倫理観の間で、私たちは揺れ動いています。
技術の進歩が生んだ「新しい選択肢」

ニューアイボリーが使用されたカワイのアップライトピアノ
暗い話ばかりではありません。人類は過ちから学び、技術を進歩させてきました。象牙が使えなくなったことで、ピアノメーカー各社は「象牙に代わる、あるいはそれを超える素材」の開発に心血を注ぎました。
現在、ヤマハの「アイボライト」やカワイの「ファインアイボリー(ニューアイボリー)」など、人工象牙と呼ばれる素材が広く普及しています。これらは、象牙の持つ吸湿性や手触りの良さを科学的に分析し、再現したものです。
人工素材のメリット
これらの新素材は、単なる代用品ではありません。天然の象牙は個体差があり、経年劣化で黄ばみやひび割れが起きやすいという欠点がありましたが、人工素材は品質が均一で耐久性にも優れています。「象牙じゃないと良い演奏ができない」というのは、もはや過去の迷信と言っても過言ではないレベルまで、技術は到達しているのです。
これからのピアノとの付き合い方
では、私たちはこの問題とどう向き合いながら、ピアノを楽しめばよいのでしょうか。
まず大切なのは、「知ること」です。もしあなたが古いピアノをお持ちで、それが象牙鍵盤だった場合、決してそれを捨てたり、罪悪感だけで手放したりする必要はありません。その鍵盤には、かつての職人の技術と、そして犠牲になった命の重みが宿っています。手入れをして大切に使い続けること、そのピアノが奏でる音色に感謝することこそが、過去への鎮魂になるのではないでしょうか。
そして、これからピアノを始める方や、新しいピアノを購入される方は、ぜひ現代の技術で作られたピアノを誇らしく選んでください。それは「動物を傷つけずに音楽を楽しむ」という、人類の新しい選択の証でもあります。
音楽は、人の心を豊かにするものです。その背景にあるストーリーも含めて愛すること。それが、現代における真の音楽愛好家の姿なのかもしれません。悲しい歴史を繰り返さないために、私たち一人一人が賢い選択をし、優しさを持って鍵盤に触れる。そうすれば、ピアノの音色はもっと温かく、もっと美しく響くはずです。
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